2015年5月11日月曜日

則天文字

八千代市白幡前遺跡出土墨書土器の文字を検討していて、則天文字が含まれていることを知り、則天文字の概要について学習しました。

則天文字の概要(Wikipediaから引用)
武則天は中国史上ただ一人の女帝であり、今までの慣わしを何でも改めるのが好きな人物であった。彼女が変更しなかったのは服装ぐらいのもので、まず国号を唐から周に変えた。改元は頻繁であり、官職名も変えた。中でも有名なのは、新たに字を作ったことである。彼女は自らの思想と政治力によって、あたかも服を着替えるかのように簡単に文字を変更した。この文字は後世「則天文字」と呼ばれるようになった。
例えば「天」の文字は𠑺に改められた。これは「天」の字の篆書体である。もっとも、このように形を変えただけの文字は例外であり、ほとんどの文字は新たに作られたものである。
則天文字が何文字あるかはよく分かっておらず、12、16、17、18、19、21個の各説があり、すべての説の文字をあわせると30字前後になる。もっとも、印刷や手書きの都合で異体字となっているものもあり、現在のところは17個説が有力である。
則天文字が使われたのはわずか15年間であったが、従来の文字にも影響を与えた。文化財などに書かれた文字を見ていくと、武則天の前後の影響がよくわかる[1]。武則天が退位した705年3月3日[2]、復位した中宗は国号を唐に戻した。則天文字は公式には廃止され、私文書においてもだんだんと廃れていった。現在中国では全く使われていない。もっとも当時の武則天の威光は絶大だったようで、中国国外にまで伝わっている。また、昔からよく文字研究の対象になっている。

則天文字リスト

則天文字は、武則天が皇位に就いていた15年間(690年 - 705年)には中国で広く使用されており、それが遣唐使によって日本に伝えられ、8世紀から9世紀初頭ごろの八千代市白幡前遺跡の墨書土器の文字として使われたということは大変興味深いことです。

八千代市白幡前遺跡出土墨書土器で使われた則天文字

墨書土器に則天文字が使われているということは、墨書土器をつくるという行為が民衆サイドから起こった行為ではなく、行政サイド、官人サイドから集落(兵站基地)に持ち込まれたという性格を物語っています。

最新外来知識である則天文字を使いたいという官人の心情は、現代一部中央官僚のなんでもカタカナ語で物事を表現したいという心情と共通します。

0 件のコメント:

コメントを投稿