2018年2月9日金曜日

マヤの崩壊

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)の学習 8

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)を読んでその抜き書きをしたり、感想をメモしたりしています。この記事では「第5章マヤの崩壊」の感想をメモします。

1 マヤ遺跡の位置

マヤ遺跡 ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

ユカタン半島

2 古典期マヤ崩壊の要約
本書では幾つかの但し書きを述べた上で、マヤ崩壊を次のようにまとめています。
●構成要素のひとつは、入手可能な資源の量が人口増加の速度に追いつけなくなったことだろう。トマス・マルサスが一七九八年に唱えた説と同じで、また、現在でも、ルワンダ(ルワンダ(第10章・下巻)やハイチ(第11章・下巻)などがそういう窮状に陥っている。考古学者のデイヴィッド・ウェブスターは、簡潔にこう言う。「過剰な人数の農民が過剰な面積の耕作地で過剰な量の作物を栽培する状態」。

●人口と資源とのその不均衡を助長するのが、第二の構成要素、すなわち、森林破壊と丘陵地の浸食が及ぼす影響だ。このせいで、ただでさえ農地が必要なときに、利用できる農地の総面積が減ってしまい、さらに、森林破壊から人為的な旱魃が派生したり、地力の枯渇などの土壌問題が起こったり、大型のシダが蔓延したりという災いが追い討ちをかける。

●三番目の構成要素は、しだいに減少する資源を巡って、ますますおおぜいの人間が争い合うようになり、戦闘行為が増加したことだ。すでにマヤの各地に広がっていた戦争は、崩壊直前に最も激しさを増した。少なくとも五百万人、ことによるともっとおおぜいの人間が、コロラド州(面積約二十七万平方キロ)より狭い区域にひしめき合っていたことを考えれば、少しも意外なことではない。戦争が原因となって、国と国との境界が、耕作をするには危険な中間地帯となり、営農できる土地の総面積はさらに減っただろう。

●事態を極まで至らしめたのが、気候変動という第四の構成要素だ。古典期崩壊時の旱魃に襲われたとき、すでにマヤには、以前の旱魃を乗り切った経験があったが、崩壊時の旱魃は、それまでになく深刻なものだった。以前の旱魃のときには、まだ人の住んでいない場所が残っていたので、旱魃の被害に遭った場所の住民はよそに移動して難を逃れることができた。ところが、古典期崩壊のころまでには、もうマヤ社会には人があふれていて、近場には新規にやり直しができるような未居住の土地がなかった。また、信頼性の高い水源を維持できる区域もほとんどなく、維持できたにしても、その区域に全人口を収容するのは不可能だった。

●五番目の構成要素として、以上の諸々の問題がマヤ社会を蝕んでいたのはどう見ても明らかなのに、なぜマヤの王たち、貴族たちは、それらの問題を認識し解決することができなかったのかという理由を問わねばならない。王と貴族たちの関心は、間違いなく短期的な問題に注がれていた。例えば、私腹を肥やすこと、戦争を行なうこと、石碑を建てること、他と競うこと、それらすべての基盤として、農民からじゅうぶんな食糧を取り立てることなどだ。人類の歴史に登場する大半の指導者と同じく、マヤの王と貴族も、長期的な問題に――察知できないものはともかく――留意していなかった。このことについては、第14章(下巻)でふたたび取り上げる。」ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

チチェン・イッツァ遺跡

ティカル遺跡(ガテマラ)
「マヤ人過去と現在」から引用

ティカル遺跡(ガテマラ) 復元図
「マヤ人過去と現在」から引用

3 感想
・メキシコ領のマヤ地域は旅行したことがあるのですが、ほとんど人口もなくいわば「荒地」であり、ここが最盛期には数百万人の人口を抱えていたという事実は実感できないものでした。文明崩壊のダイナミックさに心が揺さぶられます。
・人口急増をベースに他の不可避な悪条件が加わった時、マヤでは戦争と石碑建造に明け暮れ結局滅亡しました。この状況をアナロジカルに大膳野南貝塚後期集落(あるいは日本の縄文時代後期)に当てはめると、農耕社会と狩猟採集社会という違いがあるにも関わらず、人口急増ピーク期には「戦争」こそなかったかもしれませんが「いさかい」「喧嘩(縄文式闘争)」「社会秩序の乱れ」など社会組織の内部崩壊は必ず存在したと直観できます。(縄文人だけ人類普遍の社会心理特性と違っているとは思えないから。)
貝塚集落住民は食糧不足で集落滅亡の時まで貝塚造成工事に精を出していてようです。(貝塚造成工事…貝を砕き、土と混ぜてそれで円環状塚をつくる工事)
・文章中に下記の4170年前旱魃記述があり、ひょっとすると大膳野南貝塚後期集落衰退期と一致するのではないかと勘繰ります。

マヤにおける旱魃の頻度を綿密に分析してみると、およそ208年の間隔をあけて再発する傾向が見られる。旱魃にそういう周期があるのは、太陽の放射に小幅なばらつきがあるせいかもしれない。おそらく、ユカタン半島の降雨傾度――相対的に見て北が乾燥、南が湿潤――が南にずれ込んだ結果、そのばらつきが通常より深刻な結果をマヤにもたらしたのだろう。だとすれば、そのような太陽放射のばらつきが、程度の差はあれ、マヤ地方だけでなく全世界に影響を及ぼしていても不思議はない。実際、気候学者たちの意見では、マヤと遠く離れた場所でも、ほかの有名な先史文明の崩壊と、前述した旱魃の周期の頂点とが重なり合うとされる。例えば、世界初の帝国(メソポタミアのアッカド王国)が崩壊した紀元前2170年ごろ、ペルー沿岸のモチカ第四期文明が崩壊した600年ごろ、あるいは、アンデスのティワナク文明が崩壊した1100年ごろなどだ。」ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

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